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体験

 12月に入り、やはり多くの人たちからアセンションやマヤの暦について質問を受けます。人それぞれ色んな考え方があって良いと思いますので、どのような情報も否定はしませんが、私の方針は、ひふみ便りで聖者サイババアンマの言葉を引用して心配されているようなことに対しての説明をしていますので、もう一度読み返していただけたら幸いです。そして情報収集のあとは自分で判断していくことも学びの一つになります。アセンションだけではありませんが、起こることは起こり、起こらないことは起こりません。自我にできることは何もなく、自我の欲望や自由意志を含め、すべてが真我から起こる無限の創造で、一瞬一瞬が奇跡の連続です。すべてを大いなるものに委ね、その中で自分の役割として、今という瞬間、目の前にある学びをしっかりと進めていただきたいと思います。

 アセンションは既に進んでいて、波動(エネルギー)は上昇し続けています。地球がその土地に応じて波動を底上げし続けます。多くの人たちにとっては、その流れに順調に何事もなく乗っていくことが簡単ではありません。それは多くのカルマ=魂の成長ための課題を抱えていて、それを肉体を持った人間として、もしくはエネルギーレベルでクリアする必要があるからですが、その目的を果たすために、今の地球に肉体を持って生まれることが許されています。個別化した魂の数から言ったら、アセンションのプロセスという今の地球に生まれることができるのは、とてつもなく恵まれたことなのですが、魂の目的を忘れている自我には、そう簡単には割り切れないと思います。忍耐強く、焦らず、必ず自分と地球は良くなると信じて進んでいただきたいと思います。


 最近のヒーリング状況ですと、霊性修行を進めている人も、まだ入り始めた人も、スピリチュアルに興味がない人も、全く同じと言うわけではありませんが、同じようなエネルギーが特にハートから沸き起こってきます。あくまでも私の周囲で起こっている私の個人的な感覚ですが、オーラの、それもかなり深い潜在意識に溜め込んだネガティブなエネルギーが凝縮したもので、引っ張り出すと、まるでゴムのような感じでビヨ〜ンと出てきます。それをベロ〜ンという感じで、何度も何度も引っこ抜くもしくは引き剥がすような感じです。

 このようなエネルギーが一部の人たちのハートから出ようとしますが、それが上手く解放されない場合、もしくはそのエネルギーがある潜在意識から沸き起こるときに、急に胸が締め付けられるように痛くなったり、息苦しくなったり、イライラしたり、欝っぽくなったりします。

 アセンションは地球上に存在するすべての生命が5次元に行く試みですので、いつかは皆で手をつないでゴール的な、マラソンのように次々と達成感と喜びをもってゴールするような流れが考えられます。誰が早いとか遅いとかは全く重要ではなく、多くの人たちがゴールすることに意味がありますので、良い傾向になっていると個人的には思っています。真我からみれば、他人と思っているのは実は自分自身が投影した、いわば自分の分身のようなものです。分離感や優越感は自我を強めてしまいますので、自我=マインドの罠にはまらないようにしてください。

 政治もいよいよ大きな変化の時期に来ていると思います。選挙に当選することよりも、日本を本当に変えたいと思っている政治家が出てきている感じがします。伯家神道の予言ではありませんが、国体(国家の状態・国のあり方・国家の形態)が変わる流れになるのか楽しみですね。個人的には、破壊者でもあるインディゴ世代が政治の世界で力を持ち始めている傾向は、とても良いことだと思います。



 本題に入りますが、ある景勝地や聖地などを訪れたときとても感動し、また行きたいと強く願ってやっと訪れることができたとき、前回の感動が全くなく拍子抜けするようなことがあると思います。

 同じように、霊性修行における際にある種の体験を求めてしまう場合があります。一度瞑想の時に神秘体験をしたり、恍惚感を味わったりすると、次回の瞑想でそれを期待してしまうような場合です。しかし、同じような感覚になることはまずありません。実際には瞑想とは(瞑想という言葉の解釈には色々ありますが)、最終的には心を静める・無心になることが必要です。ある種の体験を期待するということは、心=マインドを働かせていますので、何も期待していないときに起こった体験が、期待と共に起こることはほとんどありません。聖者がいうように、来ては去っていくもの、獲得できるものは、永遠のものではありませんので、真理の探求を真摯に目指している方は、全てをプロセスとして捉え、期待せず、地道に進める必要があります。

『取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何一つ起こらない。マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどないからだ。』(ニサルガダッタ・マハラジ)


 また瞑想をしている方で、自分では深い瞑想状態を体験できていると思っていても、実際にはマノラヤ(一時的心の静止状態)に過ぎない場合あります。瞑想をしているときは心地よく、瞑想が終わると普通に戻るような場合は、マノラヤということになります。勿論瞑想の上達していく過程においては、大切な通過点になりますが、あくまでも通過点に過ぎず、最終的には瞑想状態で生きること=目覚めた眠りの状態が普通になるようにするための訓練ですので、お釈迦様の手の中にいる孫悟空にならないように、真理の探求者は謙虚に学びを進めて下さい。

『これは自由でも解放でもない。このような状態はマノラヤ、一時的な心の静止と呼ばれている。マノラヤとは、思考の動きを一時的に抑えた集中を意味する。この集中が止まるや否や、以前のように古い想念や新しい想念が急激に湧き上がってくる。・・・この段階における霊的修練の正しい指導者の不在がもとで多くの修行者が偽りの解放感覚のとりことなって惑わされてきた。そして無事に目的地にたどり着いたのは、ほんの一握りの人たちだけだったのである。』(ラマナ・マハルシ)

 またマハルシは、クンダリーニはサハスーラ(頭頂のチャクラ)を抜け胸に再び戻り、そしてハートが中心となると言っていますが、私が学んだ古の日本の教えでは、天の御柱・地の御柱となり、その柱がどんどん太くなり、最終的には宇宙を満たすというようになります。その中心は丹田で、伯家神道では丹田のことを霊源(れいげん)と言い、あくまでも私が教わった教えですが、面白いものでハートを表現する言葉はありませんでした。
 天の御柱・地の御柱となるとは、インドの教えで言えば、シャクティー(宇宙の創造のエネルギー)が全身を通ることを意味します。シャクティーが通ると、愛することが自然になります。つまり愛であるという状態で生きることになります。

 霊性修行は目に見えない世界のため、自分が素晴らしいと思っている体験や自分の状態を、自分の価値観で判断するため見誤る危険性がありますので、常に謙虚に、聖者の言葉に耳を傾けて学びをすすめていただきたいと思います。

 時々、『真我が分かった』という方がいますが、実際には真我は分かる対象ではありません。よく言われているように、主体と客体がない世界になります。「見ること」「見られること」そして「見るという行為」が一つの世界になります。ですので、「真我である」=「一つの意識だけがある」という体験があり、その言葉を超えた体験を言葉で説明しているだけですので、一般的には言葉で全て理解することはできません。自らの体験によって、聖者の言葉が真実であることを知りますので、マインドで理解しているのか、体験をしたのか、またマインドが生み出した体験なのか、マインドを超えた体験なのかをしっかりと吟味する必要があります。

 以前も書きましたが、体験を通じて成長することも可能です。たとえ自分が心=マインドで投影した幻想であっても、聖者の言葉がその体験によって腑に落ち、今まで疑問に思っていた学びを信じて進むことができる場合がありますし、逆にある種の体験によって自分が特別であるとか、私は神に特別に愛されているような選民思想的な自我が出てきた場合も「自我が試されてるな〜」という感じで学びにすることもできます。イエスも仏陀も「悪魔よ去れ」といって悪魔=自我の誘惑に打ち克ちますね。

 また教えや修行法に大きな秘密があると勘違いしているかたもいらっしゃいます。教えや修行法は最重要項目ではありません。真剣さがポイントです。

質問者『どうか、どれが真我の実現の近道か教えてください』
マハラジ『どれが近くどれが遠いということはないが、ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。・・・真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ』