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カルマ

 カルマ(業)とは、善い行いをしたら善いことが返り、悪い行いをしたら悪いことが返ってくることとよく説明されます。それを原因と結果の法則と呼んだり、因果応報と呼んだり、運命と呼んだりしますが、大きな目で見たら、我々が愛を学ぶ為の、成長する為の素晴らしい法則です。ですので、善いカルマ、悪いカルマは本来は存在しません。愛を学ぶための法則があるだけです。善いカルマや悪いカルマといった考え方は、自我のレベルから見た判断に過ぎず、神=真我=愛のレベルから見たら、愛を学ぶ最高の機会が惜しみなく常に与えられているということになります。

 7月22日の皆既日食の前後に、私は九州から東北まで訪れる機会がありましたが、あくまでも私の感覚ですが、皆既日食をピークにその前後は素晴らしい愛のエネルギーで満たされていましたので、人だけでなく、土地によってはそこに含まれていたネガティブなエネルギーがかなり表面化しているのを感じました。(我々は完全に自由意志に基づいて生きているように思いますが、実際にはこれらの土地のエネルギーに縛られている場合があります。勿論そのような土地に住むことも、ある種のカルマによって引き寄せられています。)これらを浄化する方法は、ライトワーカーと呼ばれるものたちと神々の協力によって神事(リチュアル)でするか、もしくは自然の神々、この場合は主に雨と風の神様に浄化してもらうことになります。

 ライトワーカーと呼ばれる人たちの働きが大きければ大きいほど、この負担を少なく浄化を進めることができます。しかし、セミナーに出たり、神事や祝詞を覚えるだけでは効果はなく、その人がどれほど内なる神と繋がっているか、悟りに近づいているかが大切です。二極を越えた段階にきたら、神々(究極的には神=私)が自分の体を通じて自由自在に働くのを見るだけです。この体は完全に神の道具であることを理解します。ですので技術ではなく、どれほど普遍の愛を抱いているか、自分を神に捧げられるかが大切になってきます。ライトワーカーとして学びをする人たちは、このことをよく理解して学びを進めて頂けたらと思います。


 このひふみ便りでも何度も浄化について書かせて頂きました。もちろんこれからも激しい浄化は続いていきますが、今回は浄化が進むにつれて起こる現象の一つを見て見ましょう。

 家庭や友人、知人、敵、住んでいる場所など、それらは過去世や先祖的なもの、今世でのカルマなど、原因は一つではなく我々には理解できない複雑な要因で決まってきます。その中で我々は愛についての学びを進めていきます。(厳密に言えば、これらのことは個別化した魂、個我、自我に関することで、真我のレベルから言えば、自由意志すら幻想です。聖者マハルシは生まれるとき全ては決まっており、我々に許されているのは心の置き方だけだと言っています。)

 しかし、浄化が進んでくると、このカルマ的な繋がりが短期間で終了したり、薄れてくる場合があります。今までの人間関係に突然変化が訪れたり、場所が変化したり、興味を抱いていたものに何の魅力を感じなくなったりする場合があります。

 カルマの繋がりが薄れてくる場合は、自我=心の働きが静まってきているとも言えます。みんなと一緒にいて楽しいには楽しいけれど、以前のように心から楽しめなくなったというようなことが起こります。全てのことにおいて心に響いてこなくなる場合があります。それはまるで転校生のような感覚ですね。自分だけ全然違う場所にいるような、どことなく寂しいような感覚すら起こってくるかもしれません。また、今まではカルマの為にする必要があったことが徐々になくなってきますので、自分が何をして良いのか、何の為に生きているのか分からなくなってくる場合すらあります。

 これらのことは全ての人に当てはまるわけではありませんが、人によっては霊性修行のプロセスとして起こることであり、また非常に良い兆候です。何故なら外の世界、物質世界に対して興味が薄れてくるからです。人間としては非常に味気なく思えるかもしれませんが、そのときこそ、内なる神こそ唯一普遍的存在であるとして、内なる神=真我に向かって頂きたいと思います。

 通常我々は外の世界=物質世界に眼が向いていますので、インドの聖者や禅の大家たちは、外の世界に興味を持っている人たちに対し、外の世界は幻想で、夢のように儚いものであり、そのようなものに価値はないということを何とか説得して内なる世界に向かわせようとします。しかしながら、頭では理解しても腑に落ちていない場合がほとんどですので、それを実感できた場合は速やかに内に向かうことができますね。

 また、違った見方をすれば、我々はこの地上を高天原(天国)にする為に、神としてこの地上に降りたということもできますので、今度はカルマに縛られた人としてではなく、神として自由にこの地上での創造を始めることができるとも言えます。その為には愛に基づいた創造になりますので、自我の欲望を満たす意志ではなく、神としての聖なる意志によって進んでいくことになります。しかしその聖なる神の意志を理解するには、自我をなくし、内なる神と深く繋がる必要がありますので、結局我々に必要なことは、悟りを目指すということになります。

 上記のような状況になったときには、その状況を前向きに理解し、その先へと速やかに進んで頂けたらと思います。