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幻想

 我々は夢を見ますが、もし「夢は幻想だ」と言われたならば、多くの人たちが納得できるのではないでしょうか?夢は白黒だったり、カラーだったり、また、20年以上会っていない友人が、当時の姿で現れても全く違和感を感じなかったり、大好きな俳優・女優とデートをしたりと、現実にはありえない設定でも、夢の中ではそれを真実のように体験しています。ですから目覚めた時、「夢は現実だ」と言われたら、「夢はあくまでも夢だよ」と多くの人たちは感じることと思います。

 また、どのような仕組みで夢を見ているのかは理解できませんが、多くの方々は大雑把に、頭の中で何かが映し出されて見ていると感じているかもしれません。ただ、一つ言えることは、『私は夢を見る』と言うことだけは、絶対的真実として疑う人はほとんどいないでしょう。


 スピリチュアルな世界では、『この世は幻想である』という教えがあります。『色即是空・空即是色』という表現も使いますし、神道では、『影(かげ)と像(かたち)の世界』と教えています。この古からの教えは、表現の違いこそあれ、耳にたこが出来るほど聞いたとは思いますが、ほとんどの人たちが受け入れることが出来ていないか、言葉は受け入れられても実感が全く湧かないというのが現状だと思います。

 この世が幻想であることを理解することは、唯一絶対的真実である『神・愛・真我・普遍意識』を理解することと表裏一体なのですが、神は言葉では全てを表現することができません。全ての制限を超えた世界にあるものを、制限された我々の概念と言葉では表現不可能だからです。 しかし、これが人間の凄いことなのですが、体験することは出来ます。


 それでは、何度も言われてきたことですが、皆様のご理解に少しでもお役に立つように、私なりに表現を試みたいと思います。

 突如として、現実世界の背後から無数の光の粒子が輝きを増し、物質を包み込んでいくと同時に、物質は陽炎のように徐々に薄れ、膨れ上がった光の粒子の中に、まるで光の海の中に溶け入るように全てが姿を消していきます。その逆ですが、物質は、光の海の中から、まるで映像が映し出されるように徐々に姿が現れ物質を形作っていきます。それと同時に光の粒子は徐々に輝きを弱め姿を消していきます。

 それはまるで映画を見ている時に、室内の電気を徐々に明るくしていくと、それにつれて見ていた映画が見にくくなり、最後には全く室内の明かりと同化して見えなくなることに似ています。また今度は部屋の明かりを徐々に暗くしていくと、映画は薄っすらと見え始め、部屋が暗くなるにつれて、はっきりと見えるようになることと似ています。

 人によって体験の仕方はそれぞれ違うと思いますが、このような体験をすることで古の教えが真実であることを理解します。この現実世界も、夢や映画のように映し出された世界に過ぎないと。本当に幻想であったと。

 ここで大切なことは、当たり前ですが、自分も映し出されたと言うことです。しかも世界と同時に。

 夢の話に戻しますが、夢の中の自分は、自分の頭の中か何かによって映し出されたものであることは理解できることと思います。実は現実世界の自分と世界も、次元が違うだけで、夢と同じように映し出されたものです。そこで、悟りを得た人との対話の中で、「私はイギリスからインドにやって来ました。」と言うと、「あなたは何処にも行きはしない。」という訳の分からない答えが返って来ますが、それは夢の中の自分を私と思っているか、夢を見ている人を私と思っているかの違いです。悟りを得た人はこの世が幻想の世界であることを知っていますので、真実である私の立場から発言します。

 もう一つ例を挙げれば、「あなたは何故、こんな山奥にじっとしているのですか?世界はこれほどまでにも苦しみに満ちているのに」という質問をしますが、我々ですら他人の夢の中で起こったことに真剣に手を貸すことが出来ないように、または映画の中で犯罪が起こるのをスクリーンの前に行って止めようとしないように、悟りを得た人達は、その人たちの創り出した世界に介入せず超然としています。そして「苦しんでいるのは誰か、追及しなさい」と諭します。つまり、「あなたは夢を見ている。その夢から目覚め、本当の自分を知りなさい」と言う訳です。

 我々は、神とは何か?愛とは何か?私は誰か?という学びをしています。『神=愛=私』を知る為には、『神=愛=私』で無いものが必要です。そこで、『神=愛=私』を知るための手段として、真我に対して自我があります。夢のように映し出された自分を自我(偽我=エゴ)と考えると分かりやすいと思います。多くの人たちが自分と思っているものが自我です。

 こう書くと、自我は良くないもののように思うかもしれませんが、自我は神=真我から生まれたものですし、神を知るためには必要なものです。ですから、時として、この自我(エゴ)を『手放そう、手放そう』と思いがちですが、このエゴを手放そうとしているのがエゴであることを理解する人は少ないです。この自我を救う唯一の方法は、神=真我の中に溶け入ることと言われています。

 光の無限の海を神と呼ぶならば、そこから全ては生まれ、全てはそこに戻っていきます。アルファでありオメガであるものです。自我が光の海=神に溶け込んだ時、唯一つの意識があることを理解し、私と神は一つであることを理解します。正確には『私と神』という表現も分離を含んでいますので、『私と神は一つである』ではなく、既に一つとなったので、『私はある』という表現が正しいです。

 この世界を少しでも垣間見ることができたならば、全ての人に対して、「あなたは神」だと微塵の疑いもなく言うことができます。しかし人によっては『神』と言うと、神話などの人格神的な制限されたイメージを抱いている為、「愛」とか「普遍意識」と言った表現を使った方が、受け入れ易いかもしれません。

 また、「私はどうしたら良いでしょうか?」「何をすべきでしょうか?」のような質問を良く受けますが、この段階から見ると、起こることは起こるし、起こらないことは起こりません。ただ、貴方が何を選択しても、何をしても、神の愛の中を歩んでいることだけははっきりと分かります。ですから自分の状況をどのように捉えるかが問題になりますね。

 再び夢の話に戻りますが、夢の中で、時として、『これは夢に違いない』と気づいて目覚めた経験がある人もいるでしょう。また、夢の中の自分を、登場人物の一人として俯瞰(ふかん)的に見ている場合もあると思います。ビデオカメラを自分で取った後でテレビで見るのに対して、誰かが自分を含めてビデオで取ってくれたのを、後で見る違いですね。

 現実世界における霊性修行の中で必要なのが、この気づきであり、見方です。自我、もっと具体的に言えばマインドの動きをを確りと認識することです。認識者の立場、つまりこの現実と思っている世界を、夢を見ていることに気づいているように、見れるようにすることです。 マインド(心)は移ろいやすく、外の世界に目が向かいがちです。多くの人たちはこのマインドが自分そのものだと思っていますが、それは云わば、夢の中の私や映画の中の登場人物としての私のキャラクターの一つであって、本当の私はそれに気づいている存在です。神道でも、『意(こころ)に諸々の不浄を思いて、中心(なかご)に諸々の不浄を思わず』としっかりと教えていますね。それに導く為の教えの一つが、仏陀が教えたと言われる『ヴィパッサナー』です。

 もう一つの代表的な教えはラマナ・マハルシが教えた、『私は誰か?』と尋ねる方法です。『私は誰か?』と尋ねることによって、マインドのベクトルが外から内に向かいます。つまりマインドを幻想の世界から、真実の世界である真我へと向かわせるのです。別の表現を使えば、『私は誰か?』と尋ねると神・愛・真我が必ず応えてくれるのです。何故悟りを得た人がこのような教えに首尾一貫してしているかと言うと、簡単に言えば幸せになる為の最も近道であり、結果的に世界に対してそれ以上に勝る貢献はないからです。

 我々は、真実で幸福の家である『神・愛・真我』に対しては一日の内、五分も時間を割きません。それほど我々のマインドは巧みなのです。そのマインドの動きに注意を払ってみてください。特に、マインドが恐れや不安をどのように作り出していくか。それに気づきだすと、気づくはずです。『こんなに心は楽になるんだと』と。