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今、スピリチュアルな世界では、『ハートに繋がる』『ハートを開く』『ハートで生きる』というようなセミナーやセッションが増えています。特に西洋化した文明は頭・マインド・物質重視ですが、外的豊かさや知識は得たものの、内的豊かさはそれに比例しないということが否定しがたい実感としてありますので、自然の成り行きのように思われます。
それでは日本はどうだったのでしょう?確かに現在は西洋化した為、頭重視になっていますが、実はかつての日本人は頭で考えていませんでした。それではどこで考えていたかと言えば、腹(肚)で考えていました。その伝統は今でも武道や禅の世界で伝えられています。しかしその証拠は武道や禅の道に入らなくても、言葉にしっかりと残っています。
日本人は人が何を考えているか探ろうとせず、腹の内を読んだし、悪いことを考えている人を腹黒い人と言いました。また、気の合った仲間たちとは、腹を割って話したし、時には腹が立ち、時には腹を抱えて笑い、時には腹を決めて家族や村の為に戦ったことでしょう。
ここで、OSHOの言葉を見てみましょう。
『パタンジャリ(もっとも有名なヨガの注釈者)の時代には、人々の人格の中心は頭ではなくハートにあった。それ以前は、ハートでさえなかった。それはもっと低く臍に近いところ、あるいは、臍よりも更に低いところでさえあった。いまや、中心は頭にある。・・・(中略)・・・もしハートが軽くなり重荷が降りたら、意識の中心はますます下に押される。それは臍に落ちる。臍は活力の源だ。そこからすべての他のものがやって来る、種の源だ。身体、マインド、そしてすべてが、そこから来る。』
ここで、話を日本に戻しますが、私は伯家神道を学ぶ中で、ハートについての教えを一切受けませんでした。それでは何を教わるかと言ったら、霊源(丹田)の教えです。丹田の語源は、中国で昔から不老長寿の薬に「丹薬」というものがあり、その『丹薬』を栽培する田畑ということで、「丹田」と呼ばれるようになったそうですが、それは日本の教えにも通じます。日本に伝わる丹田呼吸法を息吹永世(いぶきながよ)と言いますが、息吹=呼吸法によって、永世=永遠の世を得る、ということです。
そしてまた、日本の教えはそこに一つの明確な真理を示します。
『御霊(みたま)の鎮まるところが霊源(丹田)である』と。
我々の御霊は神様の分霊(わけみたま)です。神によって創られたのではなく、神から分け与えられたもの。つまり神そのものです。その御霊がしっかりと丹田に鎮まると、そこから本来の神の光が解き放たれます。そして、御霊を丹田に鎮めることを『鎮魂』と言います。この場合は、亡くなった魂たちをなごめる為のレクイエム(鎮魂)とは違います。ですからしっかりと鎮魂していれば、同じ怒るにしても頭に来ないで、腹が立った怒りです。腹が立つときは感情の問題ではなく、神の一つの現れと取ることもできます。火山や地震を神の怒りと表現する人たちもいますが、それは罰を意味するのではなく、エネルギーを浄化・変容するときの一つの手段です。『怒る』を『起こる』と書くと、そこに創造と破壊のプロセスを垣間見れます。
また、神道はハートは説かないと言いましたが、ハート=愛と考えるならば、御霊の一つの働きである幸霊(さきみたま)は愛の働きですから、そのための教えと行法はしっかりと残っていることになります。
そしてもう一つ、鎮魂の先に『ふとまに』という境地があります。ふとまには『太占』と漢字を当てた為に、多くの人たちは占いの類と思っていますし、実際に『太占』と名の付いた占いも存在します。しかし私は、
『ふとまにとは天地自然と完全に一つとなる境地である』
と教わりました。神人合一、即身成仏、悟りという境地と同じです。伯家神道では人は誰でも天照太神になれる(神人合一)と説きますが、天照太神になるということは、宇宙の法である天之御中主(あめのみなかぬし)とも一つとなります。
そのような教えがあるのなら、何故日本にはイエスキリストやモーゼ、マホメット、釈迦のような光明を得た人たちが存在しなかったのかと言ったら、存在しなかったのではなく、あまりにも多くの人たちがその境地に辿り着いていたからです。こういうことを言うと、日本は特別だとか、優れているという勘違いの傲慢さが出てくる場合がありますので、最大の謙虚さを持って聞いてもらいたいのですが、我々に流れる血の中には、日本が持つ特別な使命を果たす為の鍵がしっかりと流れているのです。それは、世界の為という人もいるかもしれませんし、草木との繋がりの鍵かもしれませんし、水との係わり合い、特別な星との係わり合いかもしれませんし、ヒーラーとしてかもしれませんし、食べ物や芸術に関する叡智かもしれません。どれが特別かではなく、全てが特別です。ただ、存在する場所は我々の外ではなく、内にあるということです。
ですから、こう自分に宣言することは無駄ではないでしょう。
『私の中に眠る偉大なる叡智よ、目覚めよ』
瞑想する人は瞑想中に、瞑想しない人たちは一人で心落ち着いたときに。この言葉によって突然目覚めるということはなくても、目覚めの息吹は吹き込むことができます。
そして、中心となる霊源(丹田)をしっかりと作ることが必要だと思います。その為には丹田呼吸法が大切になります。今は本でもサイトでもたくさん紹介してありますので、材料には困らないでしょう。但し、同じ頂上を目指すにしても、人の数だけ道があり、自分に合ったペースがあります。自分らしさを大切にしつつ、自分にしかない偉大なる叡智を目覚めさせて行って頂きたいと思います。