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禊(みそぎ)

 神道は禊に始まって、禊に終わると言われています。まず禊と言ったら、身を清めるために滝に打たれるとか、海に浸かると思う人が多いかもしれません。しかし禊には、それ以上の深い意味が込められています。

 ここでまず理解しておく必要があるのが、神道では私たちの御霊(みたま)は神の分霊(わけみたま)であると伝えていることです。つまり私たちの本質である御霊は神から分かれたものであり、人は元々神として生まれてきた、と言うことです。
人は皆例外なく、その人自身にしかない神の美しい光を持っているのですが、その美しい光をさえぎり曇らせるもの、それを罪・穢れとします。そこで、この罪・穢れを祓うことに主眼が置かれる訳です。神に近づこうと修行するのではなく、もともと神様なんだから、その美しさを妨げるものは常に祓っておきましょうという訳です。ですから神道では、6月の大祓いでは茅輪をくぐったり、火祭りや火渡りをしたり、海に入ったり、川に入ったり等、禊としてのお祭りがあるわけです。
それは日常生活でも同じです。トイレの後や食事の前には手を洗いますし、時代劇にあるように、以前は火打石を打って人を送り出したのです。

 話がそれますが、エネルギーに敏感な人はよく分かると思いますが、ネガティブなエネルギーは左手に主に付きます。右手はエネルギーを送る方で、左手はエネルギーを受け入れる方と一般的に言われています。私たちのようなヒーラーは、左手にネガティブなエネルギーを付けたまま、尚且つ、その左手で食事を口に運ぶことは絶対にしません。ですから、食事の前には必ず手を洗って清めることはとても素晴らしい作法に思えます。

 それでは西洋はどうでしょうか。ベートーヴェンの第九に、シラーの『歓喜に寄せて』を合唱曲にしたものがありますが、その詞では『創造主は、必ず星の彼方に住み給う』と歌われています。神という存在が、人から遥か彼方の遠い存在にされています。そこで、その仲介者として預言者がいるわけです。
しかし、ここからは西洋も東洋も同じです。つまり、一部の特別な能力をもった人に依存するという流れが、どうしても生まれてしまいます。

 それは人の行為、感情、意思、言葉、即ち人から発するエネルギーが磁石のように同じエネルギーを引き寄せるということ、自分が撒いた種は自分で刈り取るということ、つまり人間が創造主として自由に創造できること、または創造していることを教わってこなかった為にそうなったのかもしれません。自分の思い通りにコントロールをしようとする人たちには、その方が都合がいいですからね。

 ここで禊に話を戻しますが、神道でいう禊とは、祓い清めの為の『技』を意味します。祓い清めるのは天地自然=神です。ですから、神社では『禊給へ、祓い給へ』とは言いません。『祓い給へ、清め給へ』と言って神様にお願いします。それでは何の為に祓い清めるのかと言ったら、現代では災難や病気をのがれる為という意識が強いですが、究極的には先ほども言ったように元々持っている神の輝きを取り戻す為です。ですから禊とは、『本来の美しい姿=神になるための技』と言えるでしょう。日本にはその為に必要なものがたくさんあったんですね。日本だけではなくおそらく世界中で、そのような偉大な叡智が守られていると思います。

 その偉大な叡智の助けを借りて、いつの日か、神は星の彼方に住んでいると思っていた自分が実は神だったと、そしてその力は星の彼方まで及ぶということが分かる日が必ず来るでしょう。