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帰幽(きゆう)

 お客様に、「最近、周囲の人がよく亡くなっている」と言うことを聞くことがあります。これは実際にそうなのか(厚生労働省の報告では実際に増えてはいるようですが、我々がそれを感じるほどなのか)、実際には違うけれどアセンションという概念があるためにそう思い込んでいるのか、たまたまその方の周囲がそうなのかは分かりません。人それぞれと言ったらそれまでですが、親しい人が亡くなった時には、故人が成仏できているかどうかが気になる場合が多いと思います。私の所にも身内がなくなった場合、確認に来る方がいらっしゃいますので、そのことについて触れたいと思います。


 神道では死亡、つまり死んで亡くなるのではなく、帰幽(きゆう)と言います。文字通り「幽界に帰る」ということになります。帰るということは、死とは無ではなく、御霊として存在していることになります。(真我の教えではすべて幻想で、夢と同じ程度のものでしかないのですが、ここではややこしくなりますので、肉体と魂は存在するという立場から書きます)

 幽界に帰るというと、ちょっとオカルト的な発想が出てくる方もいらっしゃると思いますが、現象界=物質社会から別の次元へと移行していきます。死は肉体(物質)に制限された不自由な世界からの脱却になるのです。我々にとっては死もしくは死後の世界は未知のため、不安や恐れを抱いてしまいますが、向こうの世界が制限のない自由な世界になります。ある聖者は、「悲しみは死んだ者のものではなく、残された人たちのものだ」と言っていますね。

 問題は、ちゃんと逝くことができているかどうかになります。その人の学びに応じて、行く次元が違うと言われていますので、この世に不成仏霊として留まっていないかどうか、と言った方が分かりやすいかもしれませんし、一般的にはそのことが一番気になるところだと思います。


 まず亡くなるとお通夜がありますね。お通夜は一説には、死後の世界はこの世界とは逆になる、つまり、こちらが夜の時には向こうは昼だから、あちらの世界が昼で明るい方が迷わないで行ける、と言われています。現代はお通夜を昼に行う場合もありますが、ここで重要なポイントは、昼か夜ではなく、本来は帰幽するためのものだということです。

 ギリシア神話などを見ていると、トロイア戦争の際、英雄のアキレウスの元に戦死した親友のパトロクロスが幽霊となって訪れて会話するシーンがあります。そのように当たり前のようにそれが見えていた時代がありました。

 現代でも、私の知人にそういうものが分かる人が何人かいる家系があります。祖母が亡くなった時に、その娘である母が泣いていると、その娘(祖母の孫)がやってきて、
「お母さん、泣かなくて大丈夫だよ。おばあちゃん、おじいちゃんが迎えに来て、こっちを一回も見ないで喜んで向こうに行ったから」
と言われキョトンとしてると、甥っ子もやってきました。
「叔母さん、泣く必要ないよ。おばあちゃん、おじいちゃんが迎えに来たので、嬉しそうにスキップしながら一回も振り向かないで帰って行ったから」

 母親は同じことを言われてビックリしたのと同時に、「一回も振り向かない」という言葉に複雑な思いになり、涙がスゥーとひいたというような話もあります。お祖母さんが見えていた孫たちは、「おばあちゃん、おじいちゃんと会えて嬉しそうで良かったね」という思いになり、悲しさは軽減されると思います。


 死後の世界を体験した人たちの話を聞いても、ご先祖様が迎えに来るとか、ご先祖様が「まだ来ちゃいけない」と言われて追い返されたら、目が覚めたというような話はたくさんあります。「お花畑」や「トンネルを抜ける」、「三途の川」など色々ありますが、これも国によって共通するものと違うものがあります。

 違うものがご先祖様が迎えに来るか、天使が迎えに来るかですね。死を迎えた人たちに聞かせる本で有名な「チベット死者の書」では、光が何回かに分けてやってくるというもだったと思います。

 要するに、故人が向こうの世界に行きやすい状況が起こることになります。(真実は自分の意識がそのような場面を作り出していきます。)そこでスムーズに行ける場合は何も問題はありません。上記のお祖母さんはそのパターンです。ただ、様々な理由によりお通夜では逝けない場合がありますので、向こうに行く準備期間・猶予として49日あると言われています。亡くなった方が、しばらく家にいる感じがする場合があると思いますし、霊体として実際に存在している場合があります。おそらくそのような理由から、49日までは故人の物は片付けない方が良いと言われているのかもしれません。

 ですので、お通夜で向こうの世界にスムーズに行けた場合は、告別式、初七日、四十九日は「後の祭り」になります。既に主役はいませんからね。しかし、お通夜で成仏したことが分かっても、しっかりと法要をした方が残された人たちが不安に思わないので、現代ではした方が無難になります。

 それではスムーズに逝けない場合ですが、何かしらの理由で突然亡くなり、自分が死んだことに気づいていない場合などは分かりやすいと思いますが、家族を愛しているなど、この世に未練が残っている場合もあります。聖者が言うように、「家族への愛は執着である」ということですが、たった49日ですし、全ての人が自我をなくすということを目指しているわけではありませんので、個人的には人間らしくて良いと思います。

 神社で奉職していた時も、神葬祭に神主として出た時に、苦しんだまま身内のところにいるケースがありました。神葬祭で苦しみは出来るだけ取り除きますが、そのあとは故人の自由意志になります。すんなり光に行くこともできますし、家族とまだ一緒にいたい場合は49日までいることができます。しかし、状況によっては病気の苦しみをそのまま持っている場合や、不安や恐れ、悲しみのエネルギーを持った状況で身内の側にいると、周囲の人はそのエネルギーの影響を受ける場合があります。子供が突然情緒不安になったとか、葬式からずっと具合が悪いというようなことが起こる場合があります。その為に家に入る前に体に塩をかけて、万が一そのようなエネルギーが付いた場合はお祓いをするという風習があるのだと思います。ただ、一族のカルマを身内が引き継いだりするような場合は、成仏しているかいないかという問題ではないですので、判断が難しいことがあります。誰かがそのカルマを愛のエネルギーで変容して、一族の課題を終わらせる必要があります。

 49日を過ぎても逝けない場合もあります。時が経つにつれて逝くことができることもあるかもしれませんが、そうでない場合は神主やお坊さん、またはそういうことができる人が成仏させていきます。どのような感じかと言えば、この世界では物質として人を見ますね。つまり見た目だけでは一般的には信用できません。その一方、同じ人でもあちらの世界では光り輝く姿で見えることがありますので、「このように光り輝いているならば、たいそう立派なお坊さんか仏の化身か、どちらにせよ普通の人ではあり得ない」みたいな印象を与えることができ、そのお陰で成仏しやすくなります。

 しかしそれでも逝けない場合があります。よほど心を閉ざすようなことがあったのだと思います。私も数件扱ったことがありますが、その一つの対処法として、故人の信頼できる身内に説得、というよりは言葉をかけてもらいます。「もう大丈夫だよ。怖がらなくていいから。光の中に行ってね」みたいな感じです。こちらで光への道は示してあげた上で、可愛がっていた孫などが言うと、あっさりなんてケースもあります。

 余談ですが、医療ミスで植物状態になってしまった夫をずっと看病してき女性が、ある日突然突き動かされるように旦那さんの顔を両手で包みこんで、「私は大丈夫だから、もう光の世界に行ってね」と語りかけたら、その瞬間亡くなったということもあります。


 震災のように多くの方々が亡くなった場合が気になる方がいらっしゃると思います。これは突然のことですし、津波などで苦しんで亡くなった方も多いと思います。今でも悲しんでいる身内の方にとっては気休めにしかならないかもしれませんが、天国への逝き方だけに限れば、我々が知っているだけでも、ダライラマ法王やアンマなどの正真の聖者が関わっていますし、世界中の人が祈りを捧げました。これほど恵まれた祈りを捧げられて天国に迎えられる御霊はありません。むしろ、震災後の孤独死や病死などの御霊をしっかり供養してあげることの方が必要な場合があると思います。

 色々書きましたので、心配になってしまう方もいらっしゃると思いますが、一般的には普通の法要で大丈夫です。上記に書きましたように、向こうの世界に逝きやすい状況が起こりますから(自分の意識が起こしますから)。ただし、亡くなる側も残される側も、死への正しい理解を持つことが必要です。「死は終わりではなく、新しい学びの始まりである」とか「肉体という服を脱ぎ捨て、時間と空間に支配されない自由な世界への移行である」とかです。死に対して不安や恐れを抱かないことで、あちらの世界にスムーズに逝けることにもなります。

 ここで注意すべきことは、自殺という問題です。日本では約3万にいると言われていますが、以前警察関係の方に伺ったのですが、WHOでは変死の半分を自殺とみなしますが、日本ではその数を入れないので、実際には10万人いると言われているそうです。
 死後の世界は自由な世界なのですが、制限がないという意味で、自由=楽しいということではありません。意識は続いていますので、自殺をすることによって今現在の苦しみを終わらせることができるかどうかは別問題になります。またよく聞かれることですが、自殺した人の魂は救われないというのも間違いになります。真我を土台として起こる無限の創造は、愛から生まれ愛に戻るプロセスですので、必ず救いはあります。

 今というこの時期に肉体をもって地球で学べるということは、御霊にとっては貴重な体験になりますが、カルマで雁字搦めになって苦しんでしまうケースは少なくありません。傷ついた心を愛のエネルギーで変容していく必要がありますので、ハートが開いた人たちが増えていくこと、傷ついた人たちを受け止めてくれる人が増えていくことで減少していくと思います。

 先日テレビで「ユマニチュード」という新たな痴呆症ケアの特集をやっていましたが、しっかりとひとりの人間としての尊厳を尊重し、同じ目線で、しっかりと目を見つめ、優しく触れるなど、特に傷ついている人たちに対して日常における接し方において、大切のことが含まれていると思いました。患者の態度が劇的に変化する場合があり、またそれを見ていた看護師たちも救われているように思いました。このような手法に触れて意識改革が起こることで、痴呆症だけでなく多くの人たちが癒されると思います。


 最後に真我の学びという立場から見た場合ですが、こちらの世界もあちらの世界も夢にすぎません。死の後、違う夢が始まるだけになります。このことが分かるとダライラマ法王の言葉が真実になります。
「結局のところ、死とは大したことではないのです」