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愛とは

 「汝の敵を愛せよ」、「隣人を愛せよ」というイエスキリストの言葉を、このサイトでもよく引用します。日常では自我を削ぎ落としていく学びであるため、「日常の中での愛と許しの学び」という表現も使いますが、これは多くの人たちに分かりやすいように伝えるための表現の一つになります。

 個人としての学びは人それぞれですし、すべての人が真我探究を目指しているわけではありませんので、「愛」という言葉にどのような概念を持つかは自由ですし、正解はないのですが、真我探究を目指している場合、愛という言葉を、一般的な愛=「LOVE」という概念でとらえると、真実をつかみ損ねます。このサイトでも真我・神・愛というようにあえて並べて表現する場合もあるのですが、愛という言葉を聞くと、どうしても恋愛や家族愛・自己愛というような「LOVE」という意味合いで考えてしまう場合が多いと思います。

 このサイトで「真我・神・愛」と言っている場合の「愛」という言葉は、真我や神、普遍意識と同じで、マインドを超えたものですので、言葉ですべてを表現することは不可能なのですが、聖書では、神が「私はアルファであり、オメガである」と言います。バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナは「私はあらゆる存在に内在するアートマン(真我)であり、すべての存在の始まりであり、中間であり、終わりである」と言っています。またインドの聖者が真我を教えるために、よく金細工と金のたとえ話をします。金で作られたものは、溶かされてまた別のものに作られます。真我とはその金のようにあらゆる創造物であり、またその創造を可能にする土台であるということで、アルファーオメガと同じことを言っています。

 スピリチュアルでよく使う「ワンネス=すべては一つ」という言葉も同じことなのですが、一般的には自分と他人という相対性の中で生きていますので、ワンネスという言葉を聞くと、自分と他人は別の存在だけれど、背後でもしくはある次元で何かが繋がっているというように考えてしまうと思います。間違いではないのですが、「金」のたとえ話でいうと、自分が金でできた一つの創造物ではなく、自分自身が全ての創造の土台である金そのものだということが理解できて、はじめて理解できると思います。この壮大な宇宙を、夢のように創造している創造主であるということになります。


 「他人に対して自分のことのように接しなさい」と言う場合がありますが、実際に自分が怪我をしたときに、愛情たっぷりに怪我を治しているわけではありませんね。自分の体をただ治していると思います。むしろ大好きなテレビがあれば、見ながら手当をしたり、爪を切ったりと結構いい加減ですらあるかもしれません。しかしそこでは、自分の体であることに疑いを持っていませんね。

 そこで、聖者と会った時に、聖者が心を込めて接していないということに、異を唱える方が出てきます。特に日本のような「おもてなしの文化」がある場合は尚更かもしれません。聖者アンマが5月に日本に来ますが、彼女がダルシャン(抱きしめる)をしているときに、お弟子さんとお話をしている場合がありますので、抱きしめられながら他の人とお話をされてると、面白く思わない人が出てきます。

 ダライラマ法王も宮島で灌頂(仏教の通過儀礼)を行った時に、厳粛な雰囲気で行われると思ったら、冗談は言うし、印を間違えてお弟子さんに指摘されたりと、失笑すら起こりました。自我はそれぞれの価値観で判断していきますが、真我から見たら上記のような自我が判断していることは、本当は全く大したことではないのです。何故なら聖者は自我=マインドを超えた領域に常に働きかけていますので、自我ではつかめないですし、自我を超えた領域への働きこそが、真の解放へと導くからです。

 川に喩えますと、聖者は何をしているときも、また何もしていないときですら、水源の穢れ無き水を常に最高の形で流してくれます。我々も神から生まれましたので本来は水源のお水と同じで綺麗なのですが、様々なカルマを背負うことによって、下流の水のように汚くなってしまいます。下流という現象界しか知らない自我は、河川工事などや公園を作るなどして下流の形を整えることを望みますが、水源の清らかな水が、清らかなまま流れることによって川の水は綺麗になることを知りません。

 霊性修行では、この水源の綺麗な水を効果的に頂くために、その穢れ無き水を流すことができる存在に対して、信頼と明け渡しが必要になります。疑いや不安、自分が正しいと思っている自我レベルの判断は、まるでダムのように働き、その美しい水を効果的に取り入れることができなくなってしまいます。

 砕けた言い方をすれば、せっかく聖者に会っているのに勿体ないですよ、ということになります。世の中には無名な聖者もいますし、聖者ぶった勘違いな人もいますので、しっかりと吟味する必要はありますが、多くの方々が聖者と認めている人くらいは、素直に認めても良いと思います。ただ、その聖者が自分のグルかどうかは、過去世などの関係もありますので、別の話になります。

 聖者は全ての人が自分と同じであることを疑いなく知っています。我々がテレビを見ながら爪を切るように、何か別のことをしていることで、爪が切れないということはありませんね。


 そこで、人それぞれ概念の違いもありますのが、あえて愛を学びの段階で考えてみますと、

・自己愛、家族愛、恋愛などの愛
・自分の家族と他の家族を平等にみる愛、無償の愛・無私の愛・アガペー(神の愛)・・・まだ二元性がある。
・真我、アルファーオメガ、あらゆる創造の土台・・・アドヴァイタ (不二一元論)

 と違いが出てきます。(実際には真我はすべてを含んでいます)

 「LOVE」という愛では、災いや苦しみのないことを一般的には望むと思いますが、真我という愛は、真我に導くためにすべてを創造します。つまり、戦争や犯罪ですら生み出します。ただし、幻想=夢としてですが。

 自分と他人を別のものとして意識しないことが、真理の探究者の目指す愛になります。この境地では、実際には「愛する」ということすらありません。「愛する」という意思の背後には「愛していない」という状況があることが含まれています。私は愛そのものであるという境地があるだけです。真理の探究者は、自我の表現である「LOVE」を超えた愛をしっかり理解できるように、学びを進めていただけたらと思います。