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サイキック能力

 今でも時々2012年についての質問を受けるときがあります。基本的にはこの物質社会が何時どうなるかは誰も断言できないと思いますが、着実に進んでいることは確かだと思います。例えば、数日前のことが遠い思い出のように感じられたり、気温ほど寒さを感じなかったり、食べ物を食べると体が重く感じたり、突然虫を殺せなくなったりなど、様々な意識の変化が起こっていると思いますし、波動の高いグッズや食べ物、生地なども次から次へと生み出されています。

 また政治や経済の様子を見ましても、聖地のダイナミックな動きを見ましても、何かが変わろうとしていることを表していると思います。

 ここで聖地の動きについて、あくまでも私の感じたことですがお伝えしたいと思います。阿蘇山はある時期独特のエネルギーを発していました(全てがそのエネルギーというわけではなく、そういったエネルギーがあったという意味です)。そのエネルギーは心に深い傷を持っている方をヒーリングさせて頂いている時に感じるエネルギーと似たもので、潜在意識の中に深く潜っていくような感じです。エネルギー的には深い部分をジリジリしながらうごめく感じがする場合や、何かがこみ上げてくるような、また、どこかが詰まってくるような感じがあるかもしれませんが、感じ方は人それぞれですので固定観念は持たないで頂きたいと思います。ただ、通常聖地に行くと、気持ちよいとか、清清しいとか、楽しいとか、ハッピー的な感覚を得ると思いますが、このようなエネルギーが出ているときは、ハッピーという感じではなく、何か居心地が悪く感じたり、変な感じだったり、悪いものではなさそうだが良いエネルギーなのかも分からないとか、自分のエネルギーなのか自分以外のエネルギーなのか分からない、というような感じを受ける場合があるかと思います。また、エネルギー的には分からなくても、情緒不安定になったり、突然普段口にしないようなことを口走ったり、否定的な思考や感情が出てきたりする場合もあるかと思います。

 ですので、人によってはそのような時期や状況もあると言うことを頭の片隅においておくと、聖地での(日常でも)対処の幅が広がると思います。基本的には、そのようなエネルギーもアセンションのプロセスに必要不可欠な偉大な神様ですので、身を委ねるのが一番ですが、不安や疑心があるときは後々何か起こったときに、それが原因であるような思いが生まれてしまいますので、それぞれが無理せず対処して頂きたいと思います。自分に最善のことが起こるように神様にお願いしておくと場合によっては安心かもしれませんね。


 本題に入りますが、私はこの世界は基本的に自由だと思っています。何を目指しても、求めても良いと思っています。スピリチュアルな世界においても、この世界で有名になっても良いですし、お金を儲けることも悪いことではありません。料理が得意な人が多くの人に食べていただきたい、お店を持ちたいということと同じです。しかし大抵そこには比較がある以上、成功や失敗、羨望や嫉妬などが生まれます。

 悟りという意味でスピリチュアルを学ぶ人たちは、自我をなくすということに主眼を置き、内なる神と一つとなり、その結果太陽のように輝いてあらゆる生命に恵みを与えることになります。「何もせずして最高のことを為す」(老子)、「真我実現した時だけ世界を救う力がある」(マハルシ)という境地に達することになります。

 そこで、基本的には自由な世界ですし、どちらが正しいとか優れているということではありませんが、このような時期でもあり、悟りを目指す人たちができるだけ速やかに進めるように、これから書くことは人によっては少し厳しく感じることもあるかもしれません。時には自分の学びを否定されたように感じることもあるかと思います。そこで、ダライラマ法王が使う言い回しですが、参考になる方は参考にしていただき、参考にならない方は軽く聞き流して忘れて頂けたら幸いです。


 サイキック能力は、別次元のものが聞こえる、見える、感じるということなど、足が速いとか料理がうまいということと同様に、一つの能力に過ぎません。しかし一部の人たちはサイキック能力がある=霊性が高いのような図式が出来上がっているため、霊性修行を始めるときに、サイキック能力の開発を目指してしまいます。

 しかし、足が速くなればなるほど、また料理が上手くなればなるほど人間的に素晴らしい人になることはないように、サイキック能力が増しても霊性が向上するわけではありません。通常は自由な世界ですから、自分が目指す道を進めばよいのですが、悟りを目指す場合に限っては自我をなくすことが必要なため、その観点からすると事態は逆に向かう場合の方が多いです。

 「サイキック能力は自我を助長させ、能力の拡大と共に不幸が拡大する」とマハルシは語っていますが、おそらくサイキック能力を持っている人たちはこのマハルシのコメントを否定するでしょう。ただ全てを否定しているわけではなく、真我実現のときにひとりでに現れるもの、神から与えられるものがあることも語っています。私の師も「必要なものは悟るときに全て与えられる」と言っていましたので、多くの場合は順序が逆になってしまっていると思います。サイキック能力の拡大が神と一つとなるプロセスのように。ライトワーカーにも言えることですが、それではここでどのようにして道を外れていくか典型的な例を挙げていきたいと思います。

 始めは人を救いたい、世の中の為になりたいという純粋な気持ちがあります。しかし学びを進めていくと、他人との比較から嫉妬や羨望、もしくは自分は世の中に対し素晴らしいことをしている、さらには自分は他人より優れている、というような自惚れの気持ちが出てくる場合があります。そして人によっては、自分は正当な評価を得ていないとか、世の中の為にこんなに奉仕しているのに誰も分かってくれないのような思いが出てくる場合もあります。仕舞いにはこんなに奉仕しているのに、良いことをしているのに神は私に正当な地位を与えてくれない、豊かさを与えてくれないというように、神に不平を訴えてしまう場合すらあります。ですからそのような人が行うことは、子供のような純粋な祈りから、エゴに満ちた魔術に変わっていってしまう場合があります。実際には子供のような純粋な祈りのほうが神=愛の働きは大きいです。「幼子のようにならなければ、神の御国に入ることはできない」(イエス)ですね。

 多くの聖者が「自分は悟っている」とか「自分は○○の生まれ変わりだ」とアピールしている人に、本当の人はいないと言っています。ライトワーカーにも言えることですが、「自分は聖地を開いている」とアピールしている人も同じです。認めてもらいたいという自分と、認めさせたい他人という二極の世界にいる以上、源のエネルギー達していない、神道的に言えば、大元の神に通じていないということになります。

 余談ですが今度は逆に、サイキック能力をもっている人に振り回されてしまうケースですが、例えばイエスキリストは『汝の敵を愛せ』『隣人を愛せ』『右頬を打たれたら、左頬を差し出せ』『人を裁いてはならない』と偉大な言葉を語っていますが、ある霊能者がこれと反することをイエスキリストのメッセージとして伝えると、それが本当にイエスのメッセージか吟味しないで信じてしまうことです。

 こういうことを書きますと、「あの人は・・・・」とか思ってしまう場合があるかもしれませんが、全ての現実は自分が引き寄せていること、自分が創造していることをしっかりと理解し、その中で愛と許しを実践して頂けたらと思います。


 私も霊性修行が自我の助長につながる学びを何年もしてきました。今でも、その時もし師に救われなかったらと思うと、ぞっとしますが、その学びを通り過ぎてしまえば、大した価値がないことが分かります。

 天使やマスターが光り輝く姿で目の前に現れて祝福をしてくれたり、アストラル界でピラミッドや地底都市に入ったり、大地の精霊がその土地の秘密を教えてくれたり、大天使ミカエルに悪魔の倒し方を教わり、実際に悪魔を倒しに行ったりと、そのような学びを何年もしてきました。大切なのは光と闇、サイキック、魔術というスピリチュアルな学びを始めてからそれは起こり、その学びを過ぎたら起こらないということです。そしてもっと大切なことは、その学びをしているときには、その学びを素晴らしいものとして全く疑いを持っていないことです。勿論今振り返ってみても、全てが無駄な学びではなかったと思いますが、もっと早く誰かが教えてくれたらこんなに時間を無駄にしなかったという思いがあります。

 私が何年もさ迷った学びの段階を、同じようにさ迷う必要は特に今の時代は必要ありません。勿論そのような世界の学びを選び楽しんでも良いですし、人によっては学びのプロセスとして経験し乗り越える道を選ぶ場合もあると思います。ただ今の時代、多くの時間をそこで過ごすのはあまりにももったいないと思います。またあくまでも悟りを目指す人、天照大神を目指す人にはサイキック能力への道は障害となりますので、何を目指すかを大切にする必要があるかと思います。

 ダライラマ法王は「人を救っていくと、本当の意味において救えないということが分かる。本当に救おうと思ったら自分が悟るしかないということに気づきます」と言ってます。本当に人を救いたい場合、能力の拡大が解決法ではないことを教えてくれていますね。また、『あるがままに―ラマナ・マハルシの教え』の「超能力」の項目はとても役に立つと思います。

 『聖者に聞きなさい』がスピリチュアルな世界で真摯な霊性修行を歩む人にとっての大切な格言です。時には受け入れがたい聖者の言葉に耳を傾け、自分のエゴや固定観念を壊し、聖者を信じて進むことがどれほど容易な道かを知って頂けたらと思います。