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迷いと焦り

 スピリチュアルな学び(霊性修行)をしている人たちにはよくあることですが、楽しいときや状況が上手く行っているときは、ある学びやその時に付いている人を信用しますが、成長を感じられない停滞期や自分にとって不快な状況が訪れると、他の学びや人を求め出すことがよくあることです。これは悪いことではありませんし、そうした方が良い場合も多々あるのですが、真我実現を目指す方々にとっては、このようなことをずっと繰り返している場合は、きりがないことを理解し、自分を見つめなおす必要があるかと思います。

 通常は霊性修行だけでなく、スポーツやダイエットなどもそうだと思うのですが、はじめは成長や進歩を実感できますが、途中からは停滞期と言いましょうか、スポーツでしたら記録が伸びないとかダイエットでしたら体重がなかなか落ちないという時があります。霊性修行はこの停滞期(実際には停滞ではなく成長や変化を感じられないだけです)が人によっては長いために、徐々に迷いと焦りが生じ、どうしても他の学びや人など変化を求めてしまいます。新しい学びが始まれば、そこで新しい出会いや修行法、情報などがあり、新鮮に感じたり、変化や満足を得たりしますが、暫くするとまた落ち着いてきて、また次を求めてしまいます。

 つまり、マインドを静めることをしないで、マインド=頭・心の満足を求めてしまいます。マインドは通常落ち着きがないものですので、マインドに振り回されてしまいます。ですので、自分に合った学びを見つけるまでは色々な学びを経験することも必要ですが、『これだ』と言うものが見つかったら、それに集中した方が、結果成長が早いでしょう。


 若い頃のヨガナンダが彼の導師スリ・ユクテスワに「ヒマラヤへ行きたい」と告げたとき、師は「英知は愚鈍な山よりも悟りを開いた人間に求めるほうが容易に得られるものだ」と告げたにもかかわらず、ヨガナンダは師と親交のある聖者の住所を聞いてヒマラヤへ向います。

 ヨガナンダはその聖者と出会いますが、「若いヨギよ、お前は先生のもとを飛び出してきたね。だが、お前の先生は、お前に必要なものをすべて持っておられる。すぐに帰りなさい。山はお前の師ではない」と告げられ、また「ヒマラヤやチベットが聖者の専売所ではない。内なる準備を怠って、外ばかりいくら捜しまわっても無駄なことだ。霊的開眼のためにはどんな障害も乗り越えて、地の果てまでも喜んで行くだけの決心が定まれば、師はすぐ身近なところにでも与えられるものだ」と言われます。

 しかし、この聖者はヨガナンダの神への情熱が気に入り、家へ招き食事をもてなします。そこでヨガナンダはその聖者に「先生、どうか私にサマディを経験させてください」と頼みます。すると聖者は「それは私の役目ではない。お前の先生がもうじきその経験を授けてくださる。お前の体は、今はまだそれに耐えられない。ちょうど電球が過大な電流に耐えられないように、お前の神経もまだ宇宙電流を受け入れるだけの用意ができていないからだ。もしわたしが、今すぐにお前に無限の恍惚を与えたら、お前は全身の細胞に火が付いたように燃えてしまうだろう」


 多くの人たちは、若き日のヨガナンダのように、(新人類の人たちの中には当てはまらない人たちもいますが)霊性修行の結果を自分の体がまだ準備できていないにもかかわらず焦って求めてしまいます。自我は真我に到達できず、真我が最高のタイミングで自我を打ち砕く瞬間を、我々はただ待つことしかできません。果物が熟して木から突然落ちるように、体験はあるときに一瞬でやってきますが、それまでは地道な霊性修行をし、自我が助長しないように注意し、機が熟すのをただ待ちます。

 アセンションという情報が氾濫して、焦りが出てくることも自然なことですが、結局できることは今しかありません。焦り自体がマインドの働きですので、マインドに振り回されないように、地道に進んでいただけたらと思います。

 ある聖者は言います。『霊性修行の退屈さに飽きてはいけない』